「私が東京を変える」は安全保障関連法案の廃案を求めます。

「私が東京を変える」は安全保障関連法案の廃案を求めます。

 

日本は憲法九条を持つ国です。憲法九条の理念は日本国内で完結するものではなく、あまねく世界に発信され、その理想は世界中の市民から共感を得ています。

国際社会において、紛争が絶えないこと、戦争が止むことがないことが現実であるとして、現実に理想を合わせることを政府は望んでいるように思われます。

戦争と言う最悪の選択を避けるため、安倍政権の主張する「抑止力」という選択肢を選ぶのか、それとも、過去の経験を踏まえて、九条の理想を国是とするのか、今、その判断を迫られています。

安倍政権の提出している法案は、「抑止力」という一見理性的な言葉を用いながら、日本がアメリカと一緒に世界中で戦争をするための法案であり、まさに戦争法案と言うのがふさわしいものです。

恐らく、安倍政権にとっては、アメリカにすべて習うこと、従うことが、わたしたち日本が取りうる唯一の選択肢なのでしょう。戦後レジームの脱却という主張とは裏腹に、まさに、敗戦時のままに、安倍政権は、アメリカの時の政権の言いなりになる以外の選択肢を持っていません。安倍政権の交渉力のなさのつけを、集団的自衛権を認めるという形で、国民が背負い、九条を持つ国であるが故の、国際社会からの共感と尊敬を失い、紛争地で日々努力しているNGO職員を危険にさらし、自衛隊員の命をそまつに扱おうとしています。

しかも、この解釈改憲は、当初九十六条を変えようとしていたことからも明らかなように、立憲主義の根底を覆す野蛮な手法で行われようとしており、法的安定性を損なうものです。

言うまでもないことですが、憲法は言葉で書かれています。この一つ一つの文言を、わたしたち国民が尊敬を持って、大切に扱わないとしたら、憲法はどうなってしまうのか。わたしたちは、実質的に憲法を持たない国民となり、主権者としての国民の地位は雲散霧消して、独裁国家となるでしょう。

これはおとぎ話ではなく、ついこの間の日本の姿なのです。七十年前、日本は独裁国家として、破滅の淵に立ちました。

わたしたちの頭上に、2つの原子爆弾が投下されたのです。これは、紛れもなく、アメリカが行った戦争犯罪です。

No more Hiroshima. No more Nagasaki.

広島と長崎は、決して、Rememberとは言いませんでした。もうこりごりだからです。わたしたちの頭上にも、他の国の国民の頭上にも、原子爆弾をさく裂させたいとは思わなかったのです。

わたしたちは言葉の持つ力を、もう一度、信じようと思います。

日本国憲法が輝ける言葉として、わたしたち国民の主権者としての地位を揺るがぬものにし、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないように、ここに、「私が東京を変える」は、集団的自衛権に反対し、安全保障法案の廃案を求めます。

2015年9月4日 市民グループ「私が東京を変える」 役員会

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